太田プロの社長さんの笑顔が忘れられない。ご冥福をお祈りいたします。

私が中学生の時漫才ブームが起きた。私はビートたけしさんの大ファンになった。
 小学生の頃はドリフの8時だよ!全員集合しかなかったけど、面白い番組はいろいろあった時代。
 たけしさんのオールナイトニッポンが始まるとダブルラジカセをお年玉で買って毎週録音しては聞いた。ラジオがとてつも無く、面白かった。
 高2の時、どうしてもたけしさんが見たくて、テレビが欲しくなる。アルバイト禁止だったけど、夏休みだけのバイトをする。
工場の部品組み立て、バルトコンベアーでちいさな部品が流れて来る。エアーでホコリを落とし、製造ナンバーを貼り箱にしまう。
高校生はキツくて1日で辞めていく。一緒に入った同級生も、やっぱり辞める。と言ってアッサリ辞めた。私だけになる。10時の休憩も、私には無く、ひたすら作業。同級生がやるはずだった段ボール箱組み立ても私の担当になる。お昼休憩だけもらい、残業手当は付かないけど、毎日終わるまで居残り作業。時給350円?くらい、1か月根性でバイトして4万円を手に入れた。辞める時、こんなに根性ある子は見た事ないと褒められた。
プレハブの中の過酷な作業、後にも先にも、これほどハードなバイトはなかった。
 晴れて4万円を手に、当時戸塚に西友があり
そこに行く。42000円14インチブラウン管のテレビが1番安い。4万円しかないと言うと、なんと2千円おまけしてくれた。
 自宅に自分の部屋に置くつもりが、それさえも許してくれなかった父親。
泣く泣く応接間、今で言うリビングに置く。
 毎日たけしさんが見れる!そう思って、楽しんだ。
 話しが飛んで、私は高2の終わりから
太田プロファンクラブスタッフになる。
 更に話しは飛び、たけしさんのオールナイトニッポンの中のコーナー、ラジオ体操大会
が夏休みに開かれた。スタッフの何名かでネタを考え出演した。
短大1年になった私は自己紹介で当時ボーイフレンドが出来た。と書いた?かも知れない。東さんは司会で彼氏が出来た?みたいに言った。
たけしさんは、すかさず社長だろ。と言ったので、嬉しくて、はい社長です。とか、言い返したような記憶がある。
すべて終わり、スタッフのお姉ちゃん達が面白いのは当たり前でと、言われた。
事務所内の内輪ネタだったから、でも褒められたのが、何よりも嬉しかった。
 次の日、事務所に行くと、副社長と社長がいて、呼ばれた。
社長はいつもニコニコしていた。素晴らしい笑顔。
副社長に、『昨日ラジオに出た子は誰?』と聞かれ、私達が名乗る。
『社長の愛人は?』と聞かれ、
『あっ初めまして社長、私が愛人です。』
と、伝えると真っ赤な顔でニコニコしながら、『初めまして、ありがとう。』と言って笑ってくださった。
副社長も、『あなた面白いわね。』と言ってくださって、その場はお開きとなった。
 事務所にいる私達にも、いつも変わらぬ笑顔でおはようございます。と言ってくださった社長。笑顔の社長しか記憶はない。
ご冥福をお祈りします。
副社長と二人三脚でとても尊敬していました。
さて、仕事頑張ります。
福木染めと格闘して参りますわ。
ちなみに、ファンクラブスタッフ名は
染物屋あゆみ、当時の名は今の私の道だった。
スタッフで残った人はたけし軍団に入りたかった人の集まり。
たけしさんのお姉ちゃんになりたい訳じゃない!
だからせめてもの屋号で遊んだ。
男の子で生まれたかった。と何度思った事だろう。
さてと仕事仕事!